今夜、すべてのバーで 中島らも

どうも、メケです。

本日は、中島らもさんの小説本です。

 

「酒飲み」や「酒やめよか迷ってる人」もしくは「酒やめはじめの人」あたりが一番心に沁みるんではないでしょうか。読んだからって酒やめられるかはわかりませんけど、小説としてもおもしろかったです。

 

ちなみに私は酒やめて今5年目の人です。

飲む人の気持ちも酒飲まない人の気持ちもわからんでもないです。

でも酒やめたいと思っている人の気持ちが一番良くわかります!

 

印象に残ったところ 生と死 なぜ酒なのか

 

入院先の病院で出会った17歳の綾瀬少年。「生きたい」と願いつつも何回も手術し結局は死んでしまう。そしてもうひとり、どうしようもないほどのアル中患者の福来も病院で再飲酒し死んでしまう。らも(主人公)さんはこの対象的な二人の死を目の当たりにする。しかも地下の霊安室で。

 

かたや「生きたい」と願いながら死ぬ綾瀬少年。かたや「死んでもいい」というかどうせ人はいつか死ぬ。酒を我慢してもいつ死ぬかわからない。ならば好きな酒を飲んで今を楽しんだほうがいいじゃないかという福来。

 

たしかに人は死ぬんだ。ならば・・・ということで「酒」。わかる気もする。

ほんとうにそうなんだろうか。

楽しいことや好きなことが何もなくて、ただ死ぬだけ・・・なら「酒」もわかる。

 

なぜ「酒」なんだろうか。

この小説では「なぜ人は酒を飲むのか」についても、精神学的引用やもともとそういう素地を持つ人がいる(口唇的)だとか、真面目に書いてくださっている。読んでて、だよなーって思った。

酒にハマりやすい人とそうでない人は間違いなくいる。ハマりにくい人もハマるのも酒の事実だけど。最初からハマる素地を持っている人は間違いなくいる(ここは大いに賛成)と本書で言ってくれている。

そういう酒にハマる人は「だらしないから」の一言で片付けてしまうそこの「キミ、もともとハマらない人だろう」「この、幸せモノ!」と言ってやりたいと僕は思う。

 

ハマりやすい人は「背負っているんだ」と言いたい。この本でも言ってくれていた。天童寺さやかや車にひかれて死んだ天童寺不二雄ももともと持っていた環境(背負っていたもの)がある。そういうモノがあるんだと言ってくれていた。こういうところにも「らも」さんは触れてくれているところは嬉しかった。ただし「自分だけ背負っている」のはお門違いだと、らもさん(小説では赤川医師)は言っていた。悲劇のヒロインはだめなのかとも思う。

 

みんな、背負ってんだよなー💦 飲んでない人も・・・😓

 

なぜ「酒」なのかを真面目に考えている

この本では真面目に「なぜ酒なのか」について色々書かれている。どれも当てはまるけどコレだという答えは出ていない。けど、真面目に「らも」さんは考えてれているし、小説仕立てでおもしろく読める本になっている。

 

上から目線の説教じみた「断酒本」ではないところが僕は好きだ。

 

なぜ「酒」なのかではなくて、なぜ「酒」を必要としないのかについて暗示している場面がある

たぶん、コレがなぜ「酒」なのかの答えになるような気がしている。

シーンとしては天童寺さやかのことを意識し始めている「らも」さんだ。小説の最後の方。最後バーでミルクで天童寺さやかと乾杯している。

 

なぜ「酒」を必要としないのか。この小説では天童寺さやかを好きだから、酒がいらない。飲んでる場合ではなくなるのだと思う。大切な人との時間をすごすほうが酒よりも大事だということじゃないだろうか。

 

人だけに限らず、大切にしているペット。楽しみな趣味。やりたい仕事。なにか自分が好きになれるものがあれば「酒」なんて飲んでる場合じゃないと思うんだよな。

 

人はなぜ「酒」なのか、その答えはココにあると思う。酒なんかよりも大事なものがあるということ。

さしあたり「酒」しか見えてないから「酒」なんじゃないだろうか。

酒の入り口はいろいろあるとは思う。けど結局「酒」しか見えてないから「酒」なんじゃないだろうか。持論ですけど。

 

なのでやっぱり、酒やめれるかどうかは、酒なんか飲んでる場合じゃないほど「ほかの何か楽しみ」があるかどうかに尽きるんじゃないのかなって思います。

 

そういう意味では天童寺さやかとバーでミルクで乾杯は、僕はホッとできる後味のいい小説だったなって思えました。

 

まとめ

というわけで本日は中島らもさんの「今夜、すべてのバーで」のレビューでした。

ごちそうさまでした。

 

今日も最後まで読んで下さいましてありがとうございました。

 

ほんじゃぁまたね。

 

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事